今から3000年余り前のこと
 殷の紂王の時代にあった、酒池肉林(シュチニクリン)牝鶏之晨(ヒンケイノシン)は本当のことなのでしょうか。
史記や書経で書き継がれておりますと、いつしかそれが実際にあったことのような錯覚に陥ってしまいます。しかし、酒で池など出来る筈はないし、大酒のみの乱痴気騒ぎならほかにも表現があったでしょう。愛妾の気儘な口出しで本当に国が潰れたのでしょうか。譬喩として教養として学ぶのならともかく、一廉の質問に答えるとなると、絶句し、冷や汗ものです。
現在の歴史家はこれを史実ではないと断言しています。
 
 史記の記述は殷滅亡後1000年を経ており、書経の記録も500年が経っています。その時代殷の廃墟はまだ土中に埋もれたままで、殷王朝の存在すら信じない人もいました。何よりもそれらの言い伝えのもとは周という勝者の視点からであり、春秋時代周の封建制を支える逆教科書でもありました。しかし、史記や書経は中国のれっきとした史書であります。
 では一体、その言葉がある以上酒池肉林とか牝鶏之晨とは何なのでしょうか。
 『紂、酒を好んで淫楽し、沙丘に楽戯す。酒を以って池と為し、肉を懸て林となす。男女をして裸に、相逐(アイオ)わしめ、長夜の飲をなす。百姓(ヒャクセイ)怨望す』

            史記、殷本紀    司馬遷BC145~BC86年

 酒池肉林の語源です。
 さして親しくはなかったが、自国に居て宴会三昧の漢王宮と李陵(リリョウ)非難、司馬遷は武帝の下問にこたえ、奉上して降将李陵を弁護します。言葉でなく文書でした。その上帝妃の実兄である将軍を引き合いに出されたのがまずかった。武帝の怒りに触れ、蚕室(テンシツ)に下され宮刑(キュウケイ)に処せられます。しかし、汗血馬(カンケツバ)を求めて漢北に兵を出して巳まない武帝と苦しむ人民、殷の姐己(ダッキ)の虚栄心の為に出兵して珍品を漁り重税を課したという紂王と、そのどこが違うのかという憤怒が司馬遷の心底にあり、殷王朝に仮託して筆を奔らせたのでしょう。
 近年発見された殷、西周の青銅器の数はおよそ3600器、尨大な数です。それが殷に集中しています。これがもし大阪の遺跡から出土したなら誰が大阪は酒池肉林の痰壷などと悪口が言えましょう。殷は第一級の青銅器文明をもった大都市でありました。そしてその全部が祭器で、その三分の一が(ソン)とか(シャク)の酒器でした。尊は酒を貯え、爵は三本足の扁口(ヘンコウ)で、片方が丸で片方が尖り、二本の柱があります。柱は神門と言って下から温められた酒が神門を通って注がれる、このことが重要で神徳が授受されます。決してそれは杯盤狼藉の戯びではありませんでした。
 西周、康王期に作られた大盂鼎(ダイウテイ)(BC900年頃)金文銘に

 『我れ聞くに、殷の命を墜せるは 殷の邊候田(ヘンコウデン) 殷の正百辟(セイヒャクヘキ)に至るまで率いて酒に(ナラ)いたればなり』

と、刻されています。邊候田(ヘンコウデン)正百辟(セイヒャクヘキ)とは殷の官名で、上位の者から下位の者まで酒を嗜んだということです。が、勝者の側からすればもっとあからさまな泥酔の文字(酒に酔い両手で物を持ち一本足で舞う神獣の形)が当てられて然るべきところ、「(ナラ)いたればなり」という表現は殷の諸将の祭祀と爵酒の風習をあながち蔑すみ非難出来なかった証左でありましょう。
 物理的にも当時の酒造技術で池にするほど酒が保存できる筈はなく、クロキビの酒或な馬乳酒にしましても、安陽の地で人が酔いしれ狂うほどアルコール度数の高い酒が大量に出来たとは考えにくいことであります。高梁酒という地中に穴を掘って高梁を入れ、土をかけて十日か二十日ほどで発酵させ、スコップで掘り出して(コシキ)蒸篭(セイロ)のようなもので蒸留して酒をとる酒造方法があったそうですが、それが池というには無理がありますし、時代もよくわかりません。技術的に時代はより新しいとみるべきでありましょう。

 では何故少ない酒のそこに「酒池」という言葉が生まれるのでしょうか。
 古代、酒のことを(チョウ)と言います。穀物とそれを混ぜる匕杓(ヒシャク)です。酒を造る人を鬯人(チョウジン)と呼び、鬯人(チョウジン)(キ キョ)、クロキビを(カモシ)して造った酒を秬鬯(キチョウ)と言います。秬鬯(キチョウ)は尊に貯えられ、薬草を入れて保存されました。それは醫という字にも表されています。尊の秬鬯(キチョウ)は神饌で直会(ナオラエ)ではさきに書きました三本足の扁口(ヘンコウ)、二本の柱と取っ手、寸のついた銅器に注がれます。それを(シャク)と書きます。は金色に光り輝いていました。秬鬯(キチョウ)を注がれ温められた酒(シャクシュ)は神門を通って軍事に功あった人に酌されます。篝火(カガリビ)のもとでは酒は赤銅色(シャクドウショク)にあやしく光り輝いていたに違いありません。その時神門を通って注がれる酒は先端は丸く尾部は高く持ち上がり二本の突起があります。それは妖しく蠢く(サソリ)のようでした。それは文字の(ナリ)で也は(サソリ)の象形文字です。酒は人々を勇気づけ、時として狂わせたかもしれません。酒は小さくてもあやしい酒の池「酒池」に外なりません。(サソリ)は猛毒を持った小さくても強い奴です、漠北民の畏敬するところでもありました。勝鬨を上げる萬才三唱の萬という字は(サソリ)の象形です。軍功により褒賞を賜った記念にを鋳て子々孫々に語り継ぐための金文に「萬年無彊」の文字も見えます。萬と酒と也 。酒は生命力と強い(サソリ)への願望を込めた「酒池」ではなかろうか、その文字の骨片がどこかにないか、はるか3300年前に想いを馳せるのです。
 は現在爵と書かれ、古体字はです。これまで、爵の上部のツメカンムリはスズメの象形という説文解字の説は疑問視されています

 酒池肉林の肉林というのは脯肉・干し肉のことで、一時代前中国山岳部村落の先生への謝礼は干し肉でした。今でも読み書きを教わる先生への謝礼は束脩(ソクシュウ)という言葉で残っています。この場合軍功への恩賞、棒禄、多くの人が立てれば「肉林」のことでありましょう。生肉を吊るしてその間を裸の男女に相遂わしむという表現はどこか漢北の祭りの風習を仮借して書かれたのではないでしょうか。酒池肉林が殷の時代からあった言葉であるならそれは、爵酒棒禄(シャクシュホウロク)のことであると言わねばなりません。少なくとも昭和元禄、平成バブルの飲み放題・食べ放題ではないことは確かでありましょう。

 次に牝鶏之晨(ヒンケイノシン)ですが、語源は書経、周書の牧誓(ボクゼイ)です。書経は周の史官の記録を孔子が編集したものです。
 『時、甲子昧爽(マイソウ)---、王曰ク、古人言える有り、牝鶏の晨(ヒンケイノアシタ)することなし、牝鶏の晨(ヒンケイノアシタ)するは惟れ家の()くるなりと。今商王受、惟れ婦の言是れ用い、()肆祀(シシ)昏棄(コンキ)して答せず---、今 予発、惟れ天の罰を恭行す---』
 周王発(武王)が天命により商王受(殷王紂)を放伐するという牧野(ボクヤ)の誓いの条りです。「時、甲子昧爽(マイソウ)」は近年利(リキ)という穀物を供える青銅器が発見されてその銘から史実が確認されました。しかし、婦の言の張本人姐己の文字は殷の甲骨文その他にもどこにも見当たりません。又、受・紂王が殷の祭祀を怠ったという非難も当たりません。甲骨文解読から寧ろ他の時代よりも多く行われています。では、この言葉がある以上、私達は牝鶏之晨(ヒンケイノシン)をどのように理解したらよいのでしょうか。
 当時の殷は神聖政治でありました。十日先のこと、自然現象、王の歯痛から(シャク)、夢見、軍事あらゆることが亀卜(キボク)によって占われていました。占う女性を()と言い、男性を(ゲキ)と言います。巫覡(フゲキ)は人間ですが、神意を伝え、そのお告げは王の言葉を借りて絶対でした。紂王はこれを恣意・勝手気儘に利用したのでしょう。神事は大掛かりなもので荒唐無の言葉もここからきています。神膳は牝鶏で、首を絞めて器に盛って供えます。神に供えるための青銅の器の総称をといい、鶏の首を絞めて両手で支え器に盛って供える形で金文は表されています。いかにメンドリとは言え、そうたびたび首を絞められる、これが鳴かずにおられましょうか、いや確に断末魔の叫びをあげて逃げ回り鳴きます。
 1928年第一回殷墟発掘以来、甲骨文の骨片は13万余片、占われた回数はその何倍になるでしょう。そのたびにかどうか、牝鶏の首を絞めなければならなかった庶民の気持ちは胸が潰れる思いです。家索(イエツ)くるなりの(サク)という字は麻ヒモのようにめくり剥ぐことです。明日を占う為に牝鶏をムシリ剥ぎ取られたその恨みが牝鶏の晨(ヒンケイノアシタ)するは家索(イエツ)くるなりの語源でありましょう。つまり、牝鶏之晨(ヒンケイノシン)とは亀卜鶏索(キボクケイサク)のことと言わねばなりません。また、さきに書きました巫覡(フゲキ)()はうら若い女性()でありましょう、或いは年齢不詳の美女か、占いの巫女を亀卜鶏索(キボクケイサク)の恨みに重ね合わせ、牝鶏の晨(ヒンケイノアシタ)(ツカサ)すると悔蔑の対称としたとも言えましょう。決して女性が口出しするとかそんな単純なことではありませんでした。
 末子相続の伝統が残っていた牧畜狩漁民の殷にとって母親の実権はまだまだ健在でありました。女がしっかりしていて家が亡びる訳がない。女性が口出しして国が亡びるのは吾が子を帝位につかせようとして必死になる母親の(サガ)でありましょう。その確執においては国が亡びもします。 勿論、出典の女性、妲己(ダッキ)は気儘で虚栄心の高い浪費癖・冷酷・淫靡と伝えられています。しかし、それは男であっても女であっても同じ次元の問題であります。何よりも彼女は友好の証しか、隷属の貢物(ミツギモノ)として差し出された身であり、生まれは山東半島の東の端、有穌(ユウソ)氏の娘で海に近く、或いは小麦色の肌をした愛嬌のある黒い瞳に白い歯、天真爛漫な少し奔放で明るい少女であったかもしれないのです。利発な彼女が紂王(チュウオウ)好みの女性であったとしても軍事の槍玉に挙げるのは言いがかりでしかないことで武王にとって、かつて彼女は父・文王が羑里(ユウリ)に囚われ、釈放された時の命の恩人でもありました。牝鶏之晨(ヒンケイノシン)はまた、井戸端会議が意外な方向に発展しかねない農耕を生活の基盤とする周の人々の戒めであったかもしれないのです。
 酒池肉林といい牝鶏の晨(ヒンケイノアシタ)といい、悪女の代名詞のように言われた姐己(ダッキ)の名誉を少しだけ挽回し、女性のプライド回復に役立ちましたでしょうか。

 書展の作品つくりをしながら自問自答しています。


爵・尊・大盂鼎(ダイウテイ)金文・亀卜(キボク)


 


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