書友のために 綾香会書の教室.2004.9.5
(1) 甲骨文を読む前に、少し遥か遠い昔に目を向けて歴史のおさらいをしてみましょう。
20世紀の発掘で書き起こされる人類の起源は、1400万年前の原猿人の歯の化石からです。アフリカ東部ケニア、インド北部チベットなどの地域から発見されています。(人類の誕生・河北書房新社)しかし、それは余りにも遠い。イギリス発行誌ネイチャー2002年7月11日に発表されたトーマイ猿人が現在確認されている最古の人種です。アフリカ中部リビアのすぐ南に位置するチャド共和国で、ほぼ完全な形の猿人の頭骨化石が発見されました。今からおよそ700万年前と推定されています。
それまでに発見された猿人を順にあげますと、
A.ラミダス猿人 440万年前 エチオピア
※ラミダスは地名
B.ラミダス・カダパ 550万年前 エチオピア
C.オローリン・ソゲネンシス 600万年前 ケニア
※オロリンとはケニア原地語で最初の人
D.サヘラントロプス・チヤデンシス トーマイ猿人
700万年前 チャド共和国
※サヘランとはサハラ砂漠の南の意
トーマイとは乾期前に生れた子供につけられる名前で原地語で「生命の希望」を意味。
などです。そこで、人類が直立二足歩行を果たした確実な証拠である大腿骨とか寛骨の採取化石は318万年位までで、現在440万年前のラミダス猿人と、それ以前の化石に期待が寄せられています。人類が直立二足歩行を得て、背すじを伸ばし、遠くを見つめることが出来たことは大変なことでした。しかし、猿人の段階におけるかれらは生れ故郷のアフリカを出ることはありませんでした。

(2) 人類の次の祖先である原人、ホモ・エレクトウス(直立する人)が出アフリカを果たしたのは、今の中東黒海の東岸グルジア・ドマニシ遺跡で発見された170万年前の化石から、200万年前と推定されています。原人はそこから東へ100万年も東へ東へと進み中国大陸を横断、ほぼ東のはて周口店に至りました。そこから60万年前の化石が発見されています。かの有名な北京原人・シナントロプス・ペキネンシスです。
[時々刻々]に新説
原人は更に陸続きであった(かもしれない)対馬海峡を渡り日本列島を北上して、宮城、群馬、仙台に精巧な旧石器を残しています。サークル状に一ヶ所に整然と並べて置かれた数個の埋納遺構は、再びその場所に彼らが帰り来ることを意味し、それは長い旅の終りであるかを思わせました。しかし、それはゴッドハンドによるもので、日本の教科書は訂正を余儀なくされています。
国指定史跡の宮城県・座散木遺跡、(同) 上高高森遺跡など、一時旧石器発掘ブームの火付役をつとめた著名遺跡は、ことごとく不届きな一研究者の捏造と判明。
旧石器研究者のみならず、考古学界の存在そのものの根底をゆるがしています。
それからインドネシア・ジャワ原人100万〜60万年前の経路については南廻りの別ルートがあり、余りよくわかりません。DNA鑑定では単独説が有力です。
下にヒトの系統図と、活動の地図、新聞の切り抜きを添附します。

(3) 現代人の直接の祖先、ホモ・サピエンス(知恵のある人)は20万年前に誕生し、再び出アフリカを果たしたと考えられています。1856年ドイツで最初に発見されたネアンデルタール人の化石は西アジア各地に出土しています。イラク北部クルドの遺跡には6万年前のネアンデルタール人の遺骨が発見され、そのそばに人類がはじめて死者に手向けた花、ラナンキュラス・キンポウゲ科の植物の花粉も確認されています。眠っていた女性は何と幸せな人でしょう。ところが、4万年前にネアンデルタール人はクロマニョン人にとってかわられています。クロマニョン人は1868年フランスのクロマニョンで初めて発見された新人・現代型ホモ・サピエンスです。ネアンデルタール人がどうしてクロマニョン人にとってかわられたかかは人類学の謎ですが、両者に争った形跡が無いことから多分、言語能力の差であったろうと考えられています。
それは瞑目か安らかに眠れというひと言の差でしょうか、メールで済ます現代人はこれからどうなるのでしょう?。これから読んでみようという甲骨文は3300年前の時空を超えて古代人の意思が通じるのですから楽しい。
(4) そこから東へ、そしてシルクロードの古都サマルカンド辺りから北東へ進んだ一団は馬を駆り、羊を友とし、天山北路を経て渤海に至るまでに、黍・粟を栽培、いつしか麦を収穫して黄河の文明を開きました。その頃の黄河流域は豊かな牧草地帯であった筈です。勿論、河の流れは澄んでいて、黄河の名前が見られるのはBC221年以降秦代に行われた大土木工事と、それまでの鉄器生産のつけがきた漢代になってからのずっとずっと後のことです。
中国史に登場する伝説の王朝夏や、つい最近AD1928年に遺跡の第一次発掘が行われた殷(商)はBC1700年〜BC1066年頃に栄えた中国歴史上の最初の王朝です。
'04年10月9日付朝日、産経2紙は「夏王朝最後の都跡?」という見出しで中国河南省新密市の「新砦遺跡」が中国最古の王朝で長い間 ” 伝 説の王朝”であった夏の都跡であることを報じました。しかし、明確な遺物遺構、遺文が1928年という早い時期に発見され、いまだに新発見が続いている次代の殷王朝の歴史な存在は否定するわけにはいきません。
なかでも二度と得難い収穫は、その廃墟からおびただしい数の甲骨文字の骨の破片が出土したことです。現在の東洋文字学の基礎資料の大半がここにありました。金文青銅器については早くから研究の対称にされていました。それらを手がけられた人々の名は敬意を込めて別に記します。
−甲骨文字研究の記録−
1899年 義和団事件の頃
王懿栄 国子監祭酒
(北京国立大学の総長的地位)
古代金石学者
マラリアの特効薬として竜骨を服用
劉鉄雲 古代文字学者
竜骨に刻まれた甲骨文字に気付く
1903年 鉄雲蔵亀六冊
1911年 辛亥革命(明治44年)
羅振玉 日本亡命
王国維 東洋学の学風を日本に伝える
東方文化研究所 内藤湖南
所長 狩野直喜
1928年 第一次殷墟発掘
1932年 甲骨文字の変化 董作賓による(表1)
1932年 黒川商店 黒川幸七 450点
甲骨文字実物資料寄贈京都大学(昭和7年)
1950年 朝日新聞社 社主 上野精一 3000点
甲骨文字実物資料寄贈京都大学(昭和25年)
1960年 京都大学人文科学研究所蔵(昭和35年)
甲骨文字 三分冊 貝塚茂樹 伊藤道治共著
1978年 学研 漢和大字典 藤堂明保著(昭和53年)
1984年 字統 白川静著
1990年 中国法書選1 甲骨文・金文 松丸道雄著他
1996年 字通 白川静著
時々刻々
いまからおよそ175万年前、最初にサルから分れたヒト、トーマイをふくむ猿人が、一斉に背と膝を真直に伸ばして立ち上がった。以後のヒトを原人と呼ぶ。
それまで森林の樹上や周辺のブッシュに棲みついていた猿人は、おかげでサバンナの遠方まで見通せるようになり、足早に歩行出来るようになった。
しかし原人はそれにもあきたらず、彼等の多くは右旋して脚を東方に向けた。「垂水恒夫甲骨文コーナー」によると、100万年も東へ東へ進み、中国大陸を横断、ほぼその東の果て周口店に至りました。そこから60万年前の化石が発見されています。
とある。これは単なる垂水の幻想ではなく、多数学者の支持を受けている。
ところが「しんぶん赤旗」2004年9月30日付によると、何と「166万年前ごろ、中国北部に人類の祖先がやってきていたことを示す証拠が見つかった」というではないか。「中国科学院などの研究グループが、30日発行の科学誌『ネイチャー』に発表しました」という。
その場所は北京の西100キロメートルほどのところにある馬圏溝遺跡。人骨の化石は見つからなかったものの、多くの石器や食料として骨髄を取り出したとみられる獣骨も残っている。「遺跡の年代を過去の地磁気の変動をもとに調べた結果、最も古い層はおよそ166万年前と推定されました」という。これには『ネイチャー』に発表した中国科学院の威信がかかっており、全面的に信用していいだろう。
だとすると、原人が中国北部に到達するに要した時間は100万年どころか10万年にも満たなかった計算になる。これではペキン原人やジャワ原人などあったものではない。少なくともユーラシア大陸におけるホモ・ェレクトス創世記物語は一から出直しということだ。えらいことになったものである。
’04.10.6 米田 好喜