

(8) 表Tは1932年に発表された董作賓による十干、十二支の甲骨文字の時代変化です。
この労作のお陰で甲骨文字の解読が一気に進みました。中国古代史、貝塚茂樹・伊藤道治著の信頼のおける書物よりの転写です。
表Uは干支の組合せをわかり易くする為に縦に向かい合わせて並べ、若干簡素化してあります。用紙の関係でそうしましたが、本来ならするべきことではないので、あらかじめお詫びし、おことわりしておきます。


手の先を曲げてつかむ形。
つかんだものがそこからのびる形。
農事では発芽する。(紐 長く伸びたヒモ)

十二支の十一番目。
一印+戈の会意文字。
一はひとまとめにする形、刃物で作物を刈りとってひとまと
戍ス・シュ・ジュ・まもるは人+戈の会意文字で、兵士が武器を持っ
戉エツ



木のまだのびきらない部分を描いた象形文字。
妹・のびきらない小さい女きょうだい
昧・日のまだ出ない早朝


析子孫形と云い、特定身分の王子たることを表します。
正統な王家の子孫を表す象形文字。十二支では秦の始皇帝による文字の統一以降、つまり小篆から子に析子孫形
が使用されています。それまでの大篆、謂る甲骨文第一期から第五期、殷の時代、それから周、春秋時代の金文では、子は![]()
等で表されていますが、それが何の意味を持つのか、いまだ不明です。農事では種子を表し、陽気動き萬物滋任す形
家の中で身体をのばす形。農事では根を張る意味。
淡水産の柔らかい二枚貝のコト、その斧足のびる形。
芽が伸び、若葉が育つ、陽気動き雷電振ふ民の農事。
屠殺した犠牲の形で残骸に似る象形。

(5) 今回とりあげました甲骨文・金文は殷の中期・甲骨文第一期のBC1300年代のものと、第五期BC1000年代帝辛時代のものです。それらを選びました念頭には今回まず十干・十二支の成り立ちを理解することを基本に置いています。十干・十二支の解説から入った理由は、甲骨文・金文が天と地のあらゆる現象を理解し、説明するための記号として生まれ、以後それぞれの時代に合わせて改良されたものに他ならないからです。
次にその四点をまとめてみましょう。
イ 中国のような大陸では一日は東から日が昇って西に沈み、大地から水蒸気が立ち昇って雲となり、雨が降る、謂る単純な陰陽二元論の考え方が生れ易い環境にあります。
ロ BC5000年頃からの仰詔文化時代には薪(木)を焚(火)いて土器を作り更に鉱石を溶かして青銅(金)を鋳出し、土は水を貯めて木育む。
ハ そして、
ニ 太陽の一年365日の運行を月の29日半の満ち欠けの一巡で割る十二ヶ月、十二進法、又、十二宿星座の影響も考えられる子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥があり、これが十二支です。
これらイ・ロ・ハ・ニ をもとに
(6) そこで、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干の文字の成り立ちについても、後述しますが、これらは日常の用具の形からきていますので容易に理解出来ます。ところが、十二支の文字表記については諸説があって、添附しました白川静教授の新聞の切り抜き「『丁丑の歳』時の流れに思いを馳せる」にもありますように一概には説明出来ません。殷は河南の鄭州に都した時、鄭州は黄河を渡って洛陽の東ですがそこから一気に南征によって揚子江中流域(後の楚の屈原が活躍、身を投じた泪羅の淵、洞庭湖の西)武漢三鎮の北に栄えた屈家嶺文化との混交によってその別ルートから新たにもたらされた可能性を指摘されています。
そのルートは出アフリカを果して、現代人類の祖先が絹の道の古都サマルカンド或いは交易都市カシュガル辺りで南に折れ、タクラマカン砂漠の南、西域南道を拓きチベット高原から揚子江北部へ入った人々と、更に南下した一団は印度へそしてそれらが混在した東インド、アッサムから雲南→江南に至るルートがありました。謂ゆる、照葉樹林帯の稲作文化圏のことです。そこは御存知の盛唐の大詩人、李白の故郷があり、成都には金沙遺跡、南に竜馬鎮、北には三星推遺跡があります。いま発掘の途中で成果が期待されているところです。〔地図1.2参照〕


先年その一部発掘に立ち合われた梅原猛教授は帰国後、世界四大文明に稲作文化圏の五大文明論を展開されておられました。何時でしたか、五、六年前京書連展のあと京都、都ホテルでの、講演会で「私の故郷の大阪南河内出身の酒屋のボンが偉くなりまして」と司会者に紹介された阿辻哲次教授の資料にもありました世界最古の文字、陶片に刻された縄紋様もここから(これは間違いでした。「4」−(11)に後述します)出土しました。しかしそれはまだ何々の字らしきとしか判読されておりません。
そんな訳で専門家がまだ謎であるものを、私が説明出来る筈はなく、従って後述しました十二支の解釈は、秦の始皇帝BC221年以降、宰相の李斯によって定められた、度量衡や文字の統一以降、小篆の農事暦に基づいています。但し、これは27年前に聴講した藤堂明保先生の講演が基礎になっています。自分勝手な解釈ばかりではないことをつけ加えておきます。
(7) さて、ここで、私達初学者が注意しなければならないことは、『文字は殷が南方の文化に接したことを契機として成立するのである』と白川先生は書かれていますが、甲骨文字が漢字の起源だと早トチリしてはならないということですたしかに契機ではありました。獣骨に辛で穴をあけ、そこに焼け火バシを当てて亀裂が生じるボクッという音と形で「卜」という字が出来るなど甲骨文字ならではの文字は多々ありますが、甲骨文字のうちには、かなりの文字が既に抽象化されており、或いは抽象的な意思や言葉が文字化されており、それ以前の系譜が消えていることです。
例えば、「正」セイという字は一+止→一+
足跡、足の会意文字で、一つの目的に向かって真っ直ぐ進むかたちですが、それを「征」と同義に扱い、戦いがくり返され、遠征と征服が正義となって「正しい」となるまでには、それだけでも長い年月を感じます。また正義という字の「義」は
我で、「羊のようにかど目正しい美男子である我が一つの目的、方角に向かって進む姿」が正義の持つ最初の意味で、黒でも白でも結果はともかく、人類が東へ東へと進んだ遊牧騎馬民族の息の長い歴史を彷彿とさせてくれます。
また「父」という字はマークのような形
チチで表され(写真資料1)鼎や尊の銘にはしばしば見られます。これは手に武器を持つ形で、その昔、父は棒や手斧を持ちひたすら獲物を追い求め、戦い進む姿であったようです。そこにはかなりの時空があります。しかしその絵文字は見当たりません。
人類が出アフリカを果して今日に至る
までにはかなり永い年月があり、エジプ
トのヒエログリフに似たものがどこかに
在ると思われています。しかし、それは
一書道教室の生徒、初学者の守備範囲で
はありません。ヒエログリフの存在と解
説は専門家に期待しましょう。
本題に入ります。