とは言え、白川教授の解説文、新聞切り抜き'97年1月10日付朝日にあります。
『文字は殷が南方の文化に接したことを契機として成立するのである』という新年の思いは今暫く待たなければなりません。いや、それよりも、殷が鄭州に都した遥か    1000年も前にこれらの文字陶片が山東省鄒平丁公村に存在したことのほうが一層謎を深めています。

 少し話をややこしくしてしまいました。
つまり、甲骨文字の生まれたBC1300年頃、殷の盤庚武丁以前にはまだ見るべき文字はありませんでした。伝説の王五帝に、帝舜有虞氏(テイシュンユウグシ)帝尭陶唐氏(テイギョウトウトウシ)黄帝軒轅氏(オウテイケンエンシ)など、いかにもそれらしい帝王名が中国史に登場しますが、今から5000年も前、文字の不確な時代にこれほど立派で字義の整った呼称がある筈がありません。
 帝舜有虞氏(テイシュンユウグシ)とは、仁風のように東に西に民の慍り(イカリ)をしずめ、民の財を(ユタカ)にして秩序と楽しみをもたらした(ミカド)という意味であり、帝尭陶唐氏(テイギョウトウトウシ)とは大きな大きな窯元の親方で人徳高き殿様のことです。黄帝軒轅氏(オウテイケンエンシ)とは火矢を武器に神農氏一族にとってかわり、治安を乱す蚩尤(シユウ)を征伐した豪族の長、軒轅(ヒサシナガエ)の馭車に乗った大王であると言えましょうか、歴史の上では中国の最初の天子のように伝えられ、西安の北方200㌔陜西省黄陵県、橋山の東側に軒轅廟があります。
 
 
しかし、黄帝の時代にはまだ軒轅(ヒサシナガエ)の馭車など存在しませんでした。殷の時代でさえ遺跡から二人乗りの戦車(チャリオット)しか発見されておりません。BC5世紀春秋時代の終わり、老子の無用之用を説く記述に「三十輻一轂(サンジュップクイッコク)を共にす」と言うのがあり、車軸を通す丸い空隙穴があるから車輪はその用を為すのだとか、春秋左氏伝に唇歯輔車(シンシホシャ)の四字句がありますが、どちらもその車の形状はよくわかりません。BC221年中国を統一した(シン)の始皇帝が全国巡視に使用したとされる始皇帝陵から発見された軒轅(ケンエン)銅馬車2分の1の模型が現在確認される唯一の資料です。それは黄帝から余りに遠い。
 
 三皇五帝は
歴史の伝承と言うよりも、周の封建制を支えようとした儒家・道家の架上説と言うのが甲骨文字発見以来歴史の常識となっています。
勿論、その高邁(コウマイ)な哲学的思想は尊いと思います。
 いま、漢字の第一等の資料は次の(5)牛の肩甲骨です。
力強い彫と簡素な記録が魅力的です。


10)次は金文です。

28〕 を取り上げましたのは二角犀の酒器が珍しく面白いのと、銘文が董作賓によれば、殷の紂王、帝辛時代のもので、酒池肉林で名高い殷の滅亡期と関係があるからです。

 銘文の大意は、ヒノトミの歳に王はの国のヤシロ省察し。

今の言葉で言えば、不穏な空気があるので武器を集めていないか査察した、或は納税が少ないので取り調べた。どちらにしても、本来の目的は財宝の没収にあったのでしょう。勿論抵抗があり、その時戦功のあったのが小臣という部族の名か酋長で、というのは少し余裕のある大きな船という意味ですから、黄河下流域で勢力を持つ水軍の部族かもしれません。その部族のが帝辛王からの国の財宝であった貝、謂る、当時貨幣として通用していた小安貝賜った。

甲骨文でも旧字体で、サンズイ偏にシャクは、酒に爵で、褒美に盃をいただくことを賜るその会意文字です。 ・惟レはそこらに居るものを呼ぶ仮借、手近なもの、コレ。三東半島のまつろわぬ国を・正・征し、カエリタルトキ、凱旋した時で、コレは王の十祝又五の、在位十五年の国の祝日であった。それを記念してこの犠尊を作った。犠は鳥や獣の形に似せて作ることで、尊はお酒をお供えする神器です。
子々孫々寳用せよ、というコトでしょう。は物事が多いという印です。

 
 帝辛、紂王はその愛姫、姐己の為に酒池肉林の贅を尽し、政事を顧り見ず、姫妃の歓心を買う為に税を重くして財宝をあつめ、意に逆らう者には暴虐非情であったということです。話しは長くなりますが、暫くお付き合いをいただきましょう。

 例えば、
1. 炮烙の刑と言って火を焚いた上に、油を塗った銅柱を渡し、その上を素足で渡りきった罪人 は許す。しかし多くの罪人が足をすべらせて落ち、黒焦げになるのを見て楽しんだり

2. 妾腹の兄・微子が天子のなすべき道を説き、夏の桀王が末喜を溺愛して国を滅ぼした故事 をひき、「殷鑑は遠からず夏后の世にあり」と忠告すると紂王は「俺が存在することこそ天命だ」と(ウソブ)いて聞かず、為に微子は国を去ります。

3. たまらず、大臣であり叔父の比干が諌言すると「聖人面して何を云う聖人には心臓に七ツの穴があるらしい、本当かどうか調べてやろう」と生体解剖をします。

4. それを見たもう一人の叔父の箕子は半狂乱となって幽閉されてしまいます。それらがみな姐己の言葉 のはしりであったというのです。

5. 又、遠く周の国から拝謁に訪れた文公には贈られた財宝・美女・珍品に感激して 、一旦は弓矢斧鉞を与えて、西伯(大将軍の位)と名乗ることを許しながら、その人品骨格卑しからざる様子を危ぶみ将来を怖れて、言いがかりをつけ幽閉してしまいます。そのままでは 炮烙の刑にかけられてしまいますので、かの有名な太公望呂尚は姐己に素晴らし い贈り物をして紂王に許しを請い、スキを見て西伯文公を無事帰国させました。こ れが将来に過根を残し、その子武王によって紂王は滅ぼされることになります。そ れらの姐己のたび重なる口出しの挿話は牝鶏の晨(メンドリのアシタする)、として 女性 には大変失礼な亡国の四字句として残されております。

 しかし、これらの物語は書経の記録で、書き残した孔子は仁義礼智信を重んじ周の封建社会による身分制を理想としました。奴隷制に立脚したエリートによる仁の政治、儀礼の秩序のある社会を目指したのです。その為には、悪女を仕立て、殷の亡国の王、紂をその逆の手本として儒家の理念を説いたのでありましょう。

話しは余りにもよく出来すぎた感がいたします。

 炮烙の刑は事実としましても、当時としては罪人、捕虜、反体制派の命など虫ケラ同然でありました。当時敵対した羌族の首のない遺骸が近年殷墟で多数発見されております。比干の七ツの穴、心臓の解剖は後の荘子の「渾沌」の説話がスマートで、老荘思想の根幹をなし、愛姫、姐己(ダッキ)の字もよく見れば周公(タン)(サシムケ)と読め、さきにも書きました紂王(チュウオウ)馬の尻掛け紐の意で、全体にどこか作意を感じるではありませんか。

 歴史の節目節目で必ず美女が登場して彼女達が男性の堕落の原因・社会の敵のように語られています。持てない儒者の妬心が見えかくれして中国史を面白くしていると言えば言えなくもないですが、迷惑なことです。旧約聖書に登場する、ユデットは敵の将軍ホロフェルネスの寝首を掻いても、許せん女どころか、英雄女傑でありました。サムソンとデリラのデリラだってそうです。姐己のお百(江戸時代三悪女の一人)に化けるほど悪くは伝えられておりません。本来なら姐己は殷を亡ぼした周の恩人です。最近の女子画学生卒論テーマの人気ナンバーワンは司教の首を所望したサロメであります。歴史は女性によっても記録されるべきでありました。

 確かに姐己は美貌の女性であっただろうとは思います。当時中国北方では東スラブ系・現在のロシア人との混血があり、中には目もくらむようなあでやかな白い肌の女性がいました。かのローランの美女、ミイラの王女もそうであったに違いありません。帝辛ならずとも男子ならその虜になっても仕方ないことでありましょう。

 しかし、それはそれ、帝辛は暴君ではあっても、酒池肉林に明け暮れ、美女の機嫌取りばかりでは、人方を征した多くの記録が残るほどたび重なる軍隊を動かすことは出来ません。当時の社会体制は変わりつつありました。殷は狩猟と農工の社会で狩猟時代の末子相続が基本で、あとで兄達が加わるという古くからの形が残り、争いのもとがありました。周は農耕社会で早くから長子相続として無用な争いを避けて、他国の信用を得ていました。又
殷人には、遊牧狩猟の慣習で捕獲掠奪は天の然らしむる経済的行為という感覚が根強く、逆に周や湖北の民は農耕を生産の基礎としていますので作物は自らが努力で育てたものと、いう気持ちがあります。その作物を持ち去るのは天道に悖るという忿懣が燎原の火のように広がっていたに違いありません。
殷が神聖政治とは名ばかりの自国の都合を押しつけて、遠征に遠征を重ね、山東半島に兵を進めているその時、周は黄河を下り、背後から殷を攻撃したのです。永年の隷属関係を断ち、殷を倒し、殷の文明と財宝を狙ったのでありました。


BC1066年2月のはじめ、上弦の月の残るあけがた-。(この当りは学者によって年号が異なります。殷が亡んだのは、BC1122年、1066年、1050年、1027年等あり、年表では1050年頃で統一されています。)武王の軍は牧野に集い、殷の天命の去ったことを告げ、 ここに結束して殷を倒すことを誓います。中国史上初の放伐です。          

                 -牧野の誓い-

 

殷の軍勢は済水をとってかえし、牧野にこれを迎え撃ちますが、既に軍はたび重なる遠征の疲れから士気に欠け、破れてしまいます。

・甲子眛爽(未明)受(紂)旅(軍)を率いること林の若く牧野に会す。

 

 紂王は殷都の離宮、鹿台にかえり、火を放たれた宮殿に多くの財宝と共に火中に身を投じ、ここに殷は亡んでしまいます。紂王、帝辛は決して女の尻馬に乗るバカではありませんでしたが、権力と欲とにかたまった野心家ではあったようです。そしてその結果は何時の世でも哀れであります。又、その時勝ちほこった周の将軍は紂王の愛姫二人の首を切って軍旗の先に掲げ、勝どきの声をあげたということです

人の残虐性も又、殷も周も何らかわらないではありませんか。

 イラクのフセインを亡ぼした米軍の大義、近代兵器の殺戮は「天道是か非か」問われているところです。米軍の大義が大統領の権力の維持と石油であるなら、3000年前と何ら変わらないところであります。

 文明とは、平和とは、体に汗して働く人々の姿であり、弱い者が安心して暮らせる社会です。文明が権力者の行為を正統化し、着飾るものであったり、平和が庶民の上にあぐらをかくものであってはならない筈です。しかし、私達は好むと好まざるとにかかわらず、その文明の中に生きています。その中にあって欲望と権力のゆきつくところは常に哀れであることを歴史が教えてくれていると、心しておく必要があると思うところであります。

 殷はそのまま廃墟となり、3000年後の今日まで甲骨文字、占の記録はそのまま眠っていたことになります。殷が亡んだ後、周に仕えた受(帝辛)の叔父・箕子はかつて栄えた殷の都のあとを通りかかり、都の跡は見るかげもなく、ただ青々とした麦畑が続くばかり、とは云え、表情にあらわすこともはばかられ、懐旧寄せるとこなく、麦秀の嘆の詩が残ります。

  

   麦秀いでて漸漸たり

   禾黍(カシヨ) 油油たり

   彼の狡童(受)

   我と好からず

言外に如何ともし難かった無念さがにじみます。しかし殷の人、よるべきなき商人が各地で持てる技術を売り歩き、却って文字を広める結果となったことは前に書きました。

その代表である魯の国の生れ、孔子は、いや孔子の母は巫女で、彼は私生児であったと云われています。父は武人でしたが、三才の時に亡くなり、彼は母方の家系である巫卜を業とする家に引きとられました。幼い頃から孔子は文字を学ぶ環境にあったと思われます。成人した孔子は殷の廃墟を尋ね歩き、詩歌伝承を聞き書きました。その集大成が詩経であり、書経であります。殷滅亡後500年のことです。

 ところで孔子は怪力乱神を語りません。人の生死についても「我、今だ生を知らず。況や死に於てをや」と述べています。それは彼の母が巫女であり、殷の神聖政事、治の弊害を冷静に見つめていたからに違いありません。廃墟に立って、殷には何が欠けていたか、それは人の儒、人間のなすべき理想の姿、理念、倫理であると確信していたに違いありません。

豸冠カイチカンとは学士の、いや司法冠のことです。カイチは一角獣で、人が争っていると悪いほうをつき、人の議論を聞けば不正なほうを食ってしまう、公平を守るシンボルです。かの犠尊が二角犀であったことは惜しまれるところであります。

以下一字一字の解釈は次の通りです。 

 頭に二本の角があり、手足を以って舞う一本足の神像の形。伝承の上では帝舜に仕えた楽祖の神名。畏れつつしむさま。  

猿に似た怪物であるとも云われています。  
神鼓…京都丸大町東、銀閣寺通りに、泉屋博古館があり、常設展示されております。高さ70cmの青銅製で、器か置物か、学芸員の方にたずねてみたいと思っています。

スイ、トリ、尾の短い鳥の総称、雀、隼、近いものを指し示す。 維・惟 コレ 

 子安貝。当時の通貨。

. さかづき。酒をあたためてつぐ容器。

  古くは爵酒を賜うことが恩賞とされた。

    酒ヘン+爵シャク   

 2. 爵はすずめの形をした酒器を描いた

   象形文字。

  賜  貝+易はおしのばす、おしやる

棒を削って小さく細くそぐさま。
目を伏せぬかづいておじぎをする様子を描いた象形文字。
左右に柄の張り出た鋤 を描いた象形文字。

左右に直線状にのびる意を含み、

東→← 西、南↓↑北のような方向の意となる

示+ 
祭壇+人のひざまづいたさまの会意文字。

物をかばう右手の象形。
更にその上に、マタの意

物事が多いことの印。膨はふくらむ。
国の祝祭日に仮借。

11)・文字陶片の遺跡について誤った認識をしておりました。訂正した箇所を正しい資料をもとにもう少し文字の足跡を辿ってみたいと思います。

 当時阿辻教授の講演をお聴きした折は食事会の席であり、講演目的も多少異なり、世界最古の漢字の起源ということと、まだ未発掘の遺跡が多い揚子江上流域成都付近の何かの話しを混同、勘違いしておりました。

 あとから、当時の講演資料を取り出してよく確認してみますと、山東省鄒平、丁公村からの遺跡でした。そこで地図を取り出して探してみますと、鄒の地は御存知の孟子のふる里ですが、手元の中国地図では鄒平域は鄒県としては見当りません。上海、揚州から北京へ至る運河沿いに水駅と駅伝があり、その中間当り徐州から済南の間に鄒という駅名があります。かりにこの当りだとしますと、そこから北に孔子のふるさと曲阜があり、又、我々書道史に登場する泰山の刻石、南東100キロには 琅邪台の刻石などが見られる古くからの遺跡の多い地だということがわかります。殷の時代には、人方を征した数々の甲骨文字の記録がありますので、未発掘の遺跡も多いことでしょう。〔地図3〕

ところでこの二つの刻石は文字を統一した秦BC221年の始皇帝・政と宰相季斯の碑、小篆の代表作で現在の隷書と楷書に至る漢字の分水嶺三角点であることはよく御存知のことと思います。しかし、遠く1000キロの邑蜀の地から、戦乱と権力闘争に明け暮れ、中央集権と大土木工事を行った皇帝や宰相が自らこれら石刻の文字を手がける筈はなく、国破れ、刀吏の技術をもって隷属を余儀なくされた殷の末裔その人達の手によるものと思われます。何よりも焚書抗儒が専門の人達に2200年後の今日、書家が最敬礼する字が書ける筈がない。殷が亡んだBC1066年からおよそ800年、黙々として青銅に金文を鋳出し、木簡、帛布に篆文を書きつづけたその忍耐と努力、ここに至った才能はマコトに天晴れであります。

 この山東省一帯、黄河下流域南は、中国新石器時代後期、竜山文化発祥の地であり、泰山とその北に竜山鎮城子崖遺跡があります。泰山は歴代皇帝、霸王が封禅、つまり天人合一を天下にアピールする、あこがれの地でもありました。竜山文化は黒陶を特徴としてBC2400年~BC1700年頃に栄え、伝説の三皇五帝から夏王朝があったと考えられています。夏王朝の中心は黄河中流域南、洛陽の東30キロ付近であったと想定されています。

 三皇五帝については省略しますが、鼓腹撃壌という四字句はよく書展で見かけますので、ふれておきたいと思います。三皇五帝のうち帝堯舜の時代は仁徳の政治がよくゆき届いて民が平和に暮し、為政者におびえることのない理想的な社会があったと言われています。好きな古詩ですので復誦しましょう。

            鼓腹撃壌(コフクゲキジョウ)

     日出而作 日入而息 鑿井而飲

     田耕而喰 帝力干我何有哉

               (ウガツ)(サク)で臼を突く形・(エキ)はその動詞

 日出テ作リ 日入リテ憩ウ 井ヲ穿チテ飲ミ 
    田ヲ耕シテ喰ラウ 帝カ我ニ何ゾ有ランヤ

 帝堯が内緒で市中を見廻ったところ、人々は「お天道さまのもとで元気に働き、日が暮れたら一杯飲んで上機嫌や、お殿さまがみえてもわしゃ知らん」と唄っていたので、却って安心したということです。どこかの国の首領様とはエライ違いです。イヤ、60年前までの日本もそうでしたから偉そうなことは言えません。

鼓腹撃壌とは民が腹鼓を打ち、足を踏みならして喜び、踊り楽しむ様子です。

 後世、儒家・道家は帝堯舜の治政を理想としましたが、彼等の生きた時代は、まだ周の封建制が根強い縦割りの社会でした。「帝カ我ニ何ゾ有ランヤ」とは、儒家のうちでも、民本位主義を貫いた戦国時代の孟子にこそ言えるであろうと思うところです。ただ、彼の矜恃は現実には実を結びませんでしたが。そう言えば墨子の兼愛説、無差別愛も、やがて特権階級に支持されなくなり、戦国の波にのまれてしまっています。民本位主義は4500年後のつい半世紀前に、日本では定着したばかりです。

 そして夏王朝最後の王、桀は愛妾末喜を溺愛して豪華な宮殿を造り、肉山脯林の浪費、為に殷の湯王に滅ぼされてしまいます。BC1670年のことでした。

 ところでその夏の桀王の桀は磔刑のケツで、豪傑の傑ではありません。傑は高くかかげて人が抜きん出ている形であります。桀王履癸は膂力、腕力、又知と勇気の持主でありましたが、桀は高くかかげただけのハリツケを意味しています。

そんな諱は誰がつけたのでしょう。儒家とは儒、理想を唱えながら底意地の悪いところがあります。いや、その儒の衣を着たエリートこそ古今東西もっとも油断がなりません。

 余談ですが、社稷(シャショク)に巣喰う鼠を社鼠(シャソ)と言います。旧幣を死守して権益と安逸を貪る堺屋太一氏云うところの官僚主義、困循姑息な役人根性のことです。ところが歴史は寧ろこの人達によって糾われております。宮殿の造営も肉山脯林(ニクザンホリン)の浪費も増えつづける彼等が私腹を肥やすための阿諛追従(アユツイショウ)であったと言っても過言ではないでしょう。戦勝の貢物として差し出された末喜(バッキ)がいくら王の寵愛を受けたとは言え、年端もゆかない少女の身で国民の反感を買うような大それたことが出来る筈はなし。親元を離れふさぎ込んでいた彼女がつけ込まれたのは火を見るよりも明らかでありましょう。

 さて、丁公遺跡は竜山文化時代のものと推定されて、そこから6000片もの文字紋様陶片が近年出土しました。それが添付の陶片1/6000片です。(写真資料2)これは中国最古の文字と認定されており、参考までに(ケン)(シュン)(レキ)などの字が不確実ではありますが読まれております。従って揚子江上流域成都、中、下流に至る稲作文化圏からの文字関係の資料出土については今のところ手がかりはありません。

 勿論、揚子江中流域、湖南省の城頭山遺跡からは6400年前の世界最古の焼成レンガが発掘され、古代インダス文明よりも古く、遺跡の中央にはギリシャ式の回廊跡が確認され、それは神殿跡ではないかと考えられております。もし、苗族の城郭都市が存在したとすれば、何らかの記録がなされたであろうと思われますこれは01年11月3日の新聞記事ですので、今後新しい発掘が待たれるところです。

王 ①王、大地に立つ偉丈夫の象形。
   ② 天地人。
        三戈を貫く者が王。
   ③ 下部のふくらみは戊エツの象形。
       鉞マサカリは王権の象徴。