考証其の七・仏教東伝、
2000年の不思議

図1 集王聖教序 整本 三井文庫・木鶏室蔵
宋拓/写真・井上 奉紀
二〇〇七年のお盆が過ぎました。親しい人が鬼籍に入り寂しい限りです。大阪日本橋の古書店で国訳一切経、般若部4巻があり、 属類品第五十八の頁を拾い読みしました。小さな古書店でも仏教関係の書籍はセットものも含めて二百冊位はありましたでしょうか。その帰り道、ふと、同窓会の席で隣り合わせた朝枝善照さん(龍谷大学教授、浄土真宗本願寺派、浄泉寺住職、中世仏教史専門。「山頭火、濁れる水の流れつつ澄む」の著者、平成十九年一月寂浄)にお願いしていた大英博物館所蔵の本物の敦煌写本、摩訶般若波羅蜜属類品第三十 、藤枝晃著、文字の文化史より資料①の解釈の返書を思い出し、二十一世紀に持ち越した私の疑問、.
混用2000年の不思議、 阿耨多羅三
三菩提の釈文を改めて次ぎのように読みました。
これ以上ないほどやわらかく、 ー 阿耨
この世の苦しみを掘り起こしならし耕して
これ以上ないほどうすく ー 多羅
天女の羽衣のように苦しむ人々にやさしく
侃々諤々 ー 三
山犬のように目をつり上げ牙を鳴らし身振り手振りで長口舌、議論が尽くされ考えられ、
シャーマンのように妖しく舞い謳うこれは
(兜 率 鸞 騰)天人諸仏の處へ ー 三菩提
これまでに漢訳された仏典の数は後漢時代から十四世紀の元時代までにおよそ二千部。その経典のあちこちにこの称讃の言葉、あのくたらさんみゃくさんぼだいがあります。正しくは三、四世紀の経典にはほとんど見当たりませんが、「阿耨多羅三耶三菩者」等疑問助詞耶の古訳(道行般若経支婁迦懺訳、京都、神護寺蔵)があり、五、六世紀の経典は「
」で、七世紀後半から「
」「
」混用されている筈です。
ここでもう一度、「
」の解字をこころみます。大漢和辞典には「
」という字は見当たりません。ひとつにはこれが不思議なところですが、根性曲がりの「狠 」で載っています。そのケモノヘンは山犬のことで、「艮」は目+匕で目の下に入れ墨をした邪眼のこと、従って
は目をつり上げ、ガチガチと歯を咬みならす山犬の形相を表しますが、ここではシャーマン、鬼道を意味します。草カンムリはキンポウゲ(毛莨)、毒草ですが、シャーマンにとっては薬草のことでしょう。或は「若」という字の上部と同じ手カンムリで、あれこれ印を結ぶ意かもしれません。
そしてシャーマンはこの場合、あの甲骨文字を生んだ殷の巫覡のことで古くから文字をよく理解し、遠く殷滅亡後千三百年、刀使(記録官)となって全国へ散って行ったその一族の何十人、何百人かは四、五世紀、訳経僧(阿羅漢)となったとみるべきでありましょう。従って「
」という字は仏典では、苦悩する訳経僧・シャーマンを意味して導かれた文字ということが出来ます。ただしその「
」という字をサンスクリット語のミャクと読めるかどうかとなると素人判断では与し難いところですが、京都にノーマクサンマンダーラという街の呪文があり、漠北訛りで漢訳されたとすればその通りでしょう。
次は、今回参考にしました資料①とその返書、同封されていた属類品第二十七、それと鰊昆布巻に添えた簡単な私の礼状です。
資料①
大英博物館所蔵の本物の敦煌写本
藤枝晃著「文字の文化史」より


次に同封されていた
摩訶般若波羅蜜経属類品第二十七大正新脩大成経第八巻ヨリ

返書
是文字章句相狠説 般若波羅蜜
(狠=犬のかみあう様)
鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の一部と考えられますが、現二十七巻本とはか
なりの相違が見られます。「Ⅲ」とあるため三十巻本かとも想定できます。
この部分は写本では若干意味が通らない箇所も多く適格な訳は困難ですが「般若波羅蜜」を説く功徳を示していると思われます。
御礼
鳩摩羅什訳 是文字章句相狠 説般若波羅蜜
玄奘訳 以是相以是像貌 以是名字説般若波羅蜜
鳩摩羅什訳と玄奘訳では生まれた国、亀茲と大唐 又 仏教東漸の時代と成熟期に入る二百年の時の差によって漢訳に相違があることがよくわかりました。羅什の文字章句が噛み合うという表現は大変面白いと思います。ともかく、永年の疑問が氷解しました。有り難う御座居ました。
朝枝先生 2006 年3 月10 日 垂水 拝
羅什訳、玄奘訳を対比してみますと、玄奘訳に「像貌」という字句が見られます。「像貌」は「藐」であり、当然三蔵法師は自らの信条とした五種不翻の一つである、いにしえに順ずるが故に訳さないという文字「三
」には何らかの疑念を抱いていたとしても不思議ではありません。それはインド取経中の苦しい旅の途上なんども生死の中を彷徨い心を无(無)にするという思いからであったでしょう。しかし古くから五失三不易の言葉もあり生前その改訳は見られませんでした。六六四年法師入滅後約十五年、「藐」の字は時代を錯誤して登場します。貞観九年十月旦日唐歐陽詢書「般若波羅蜜多心経」三井聴水閣蔵本(資料8)は、出来てもいない心経を漢訳の八年前にすでに亡くなっていた初唐の大書家が書いたという世にも不思議な写経です。清楚な品格ある楷書体で書かれた佇まいの中にその文字はあります。正字と楷書の普及を図った当時の国策でもありましたが、法師の生前の想いが通じたのではないのでしょうか。
資料8 初めて藐の字が見られる写経

↑
○ 欧陽詢 557~641 年
○ 玄奘訳 般若波羅蜜多心経
三井聴水閣蔵本 貞観九年は635 年
○ 玄奘三蔵 602~664 年
635 年玄奘34 才はインド、カニャークブジャで取経の最中
訳経開始は貞観十九年(645 年)
では何故、心経に「
」二字が混用されて今日に至っているのでしょうか。それは大唐三
蔵聖教之序碑文心経(672 年建立) (資料9)に原因があると思われます。この碑ははじめ長安
の弘福寺に建てられ、今は西安碑林に置かれています。この碑が手本になりました。
資料9 西安碑林原碑は現存する中国最古の般若心経 

↑
東晋の王羲之の書法をよく学んだ僧侶懐仁は石碑の心経に「
」の字を集字して刻ませました。
当時、用字の標準化は当然懷仁にも及んだことでしょうが、彼の矜持は現代の書家がどちらかというと古字を尊重書写される気持ちに似ていると思います。また碑が完成する8年前に三蔵法師が他界されていたこともひとつの原因でありましょう。しかし何よりもこれは四一三年、亀茲から幽閉されて非僧非俗のまま長安に没した鳩摩羅什のことば、舌根不焼の執念ではありますまいか。
270 年前、鳩摩羅什(413 年没)が漢訳した摩訶般若波羅蜜多大明呪経と三
の文字(法華経如来人力品断片、龍谷大学蔵 資料②)、もしかしたらそれは長安で鳩摩羅什が漢訳の頼りとした第
一の弟子僧肇、彼は殷の末裔で、1300 年の無念の思いをバネに生きた巫覡の依って来たらしむ神呪であったかもしれません。
その碑文は手本となって日本に伝わりました。80 年後の天平勝宝四年(752 年)奈良大仏開眼供養を機に東大寺東北の一隅坊舎写経場で書かれた名高い隅寺心経(資料12)は達陀の行を鼓舞し、更に八百三年に入唐し、帰朝後高野山に金剛峰寺を創建して密教を伝えた空海の書に破体心経(資料13)があります。その翩翻たる書体の三
の文字は妖しい光茫を放っています。それから300
年、唐が亡び宋が興り、日本の平安後期、平家納経は「藐」「
」異体字様々です。
.
資料12 日本最古の般若心経 奈良海龍王寺 天平勝寶六年(754年)

資料13 空海破体心経 広隆寺蔵

↑
さてここから先は一書道教室生徒の履修課程ではない神の領域のようです。平安の三筆といわれた空海は文字は月をさす指にすぎないと言い去り、鎌倉時代の道元は仏法は眼横鼻直と言い切って学んだ全ての典籍を置いて帰国しました。もともと般若経の思想の根底には文字に対する不信が存在しています。が、しかし、漢字は表意文字であり、3000
年前の甲骨文字でさえ100 年前に突如発掘されて、それが今日でもすぐ読めるのです。心経が顕経であるなら、やはり「
」の字の写経はシャーマンという文字の成り立ちから言ってそぐわないし、漢和辞典の根性曲がりの意味からもおかしい。意識の底の阿頼耶識、ひとがひとたるの性根と言いますか、ほのかなたましいの良知をいう「藐」でありましょう。それは間脳の働きのことだとお医者さんは教えてく
れました。
これまで誰が何時、何の為にとか仏法を誹謗するのではないかとか迷いながら随分遠回りしました。考証三で井上靖詩、金子鴎亭書、「交脚弥勒」を無断引用しました。大同雲崗の大石像仏、龍門の仏龕造像記を想うとき、北魏を建てた民族のエネルギーに立ちかえり、
と言う字がどこから来たのか、この書がヒントとなり励ましとなりました。藐と
は片方が単なる略字でも意味の取り違えでも悪意からでもありませんでした。弥勒の旅の途中に当たる嘉峪関の北350km居延出土の木簡には「墾田鉄器ヲ以テス」とか「楽狼」(資料14)の文字がすでに前漢時代の屯田兵士によっても正しく書き残されています。
訳経僧の苦悩を表した「
」の字は巫覡、シャーマン、羅漢の歴史であり、交脚から半跏思惟へと形をかえていった弥勒仏の旅でもありました。最後に名僧善知識の正訳とこの春故人となられた米田好喜氏の「弥勒の来た道」の四、「旅を終える弥勒」、五、「番外編」をかりて、般若心経秘鍵 疑問のしめくくりといたします。
2007・8・26 T, TARUMI
資料14 居延出土の木簡。狼と豤

(財)毎日書道会
正訳
阿耨多羅三藐三菩提
● anuttara samyaku sambodhihの音写
無上生等正覚が意訳
この上にない正しい覚りのこと。
般若経典(東京書籍) 中村 元
● 無上生等覚
最高のさとり、仏のさとり。この上もない正しく平等な目覚め。
般若心経講義(PHP) 紀野一義
● 無上生等正覚
この上ない完全なさとり。
心経用語辞典 松涛弘道
● 最上のものであり、絶対のものである完全無欠なあかあかとしたさとり。
般若心経(講談社) 池田魯参
● その尊厳なる普遍的人格を自覚されるのである。
般若心経(写経の解説) 山田無文
(敬称略)

弥勒の来た道
1、弥勒が来るまで
2、弥勒の時代
3、弥勒の旅
四、 旅を終える弥勒
京都広隆寺はもともと蜂岡寺といい、創建者泰河勝は朝鮮半島新羅国出身の渡来人だった。仏は朝鮮製、願主は朝鮮半島出身、寺の所在する地名の太秦も、本来ウル・マラ。古朝鮮語では「部
族の首領」を意味する。こうしたデータをみると、これが古代日本人の信仰の諸相を代表したものと言い切るには躊躇されるものがある。
話が中宮寺となると、これはもう日本の寺の日本の仏と容認して差し支えないと思われる。ところがその中宮寺が、本尊である半跏思惟仏を如意輪観音と信じて譲らない。
一方大阪府野中寺の半跏思惟金銅仏は、わずか30・6センチの小像だが、台座に「天智五年(六六六)橘寺の知識百十八人の寄進により作られた弥勒仏である」と明記されている。わずか30センチの小像一つ作るのに百十八人もの檀徒が金を出し合わねばならなかったという事実と当時まだ如意輪観音信仰はなく、弥勒とするしか外ない仏を、密教仏の如意輪観音と主張して譲らない寺側の認識を重ね合わせると、この時期(七世紀後半)すでに弥勒信仰は衰退を始め、一部にはすでに密教の蚕食がはじまっていたことを物語るものとしか思えない。敦煌出現以来二四〇年に及んだ弥勒の長旅は、この時点すでに終わっていたのである。

番外 弥勒の去った後で
「弥勒の来た道」は、大阪調理士養成会会長垂水恒夫君が、ここ数年来研鑽を重ねて来た般若心経研究に触発されて書かれたものである。垂水君の心経研究テーマは、経文中にある阿耨多羅三
三菩提の一節に集中され、さらに集約すれば「
」の一字に尽きるといって差し支えないだろう。
浄土真宗門徒であり書道家でもある垂水君は、その手本とするために、古今の名筆といわれる心経の墨蹟を片っ端から漁るうち、おかしな事に気がついた。本来「藐」と書かれるところが、しばしば「
」と書かれていることである。垂水君の話では、阿耨多羅三藐三菩提というのは、「この上ない正しい悟り」という意味だそうだ。でも
が藐と同じか、それに近い意味を持っているなら、一種の略字として大して差し支えないだろう。だが垂水君の調べたところでは
は「よこしま」という、藐とはまったく正反対の意味であることが判明した。ところがその積もりで再検討してみると、垂水君が収集した心経写本の中では、意外にも
派が多く、藐派を圧倒する勢いである。その傾向は現代の書家まで及んでおり、これまで問題にされたことがなく、今後問題となりそうな気配もない。垂水君のいう「混用千五百年の不思議」である。
なにしろ千五百年もの間不問にふされてきた末の小さな大発見である。筆者などうっかり手を出したらヤケドしそうで、意識的に距離を置いてきた。だが今垂水君の示唆を受けて「弥勒への道」を書き上げた以上ノーコメントを続けるわけにもいかない。手短かに私見を述べて本作の緞帳を降ろしたいと思う。 般若心経は「大品般若経」二十七巻」(鳩摩羅什訳)「小品般若経十巻」(鳩摩羅什訳)「大般若波 羅蜜多経六百巻」(玄奘訳)等の精髄を、わずか二百六十二字に圧縮・再構成したもので、ミニ経典中の最高傑作である。俗世のわれわれが読んで意味が分からなくてもお経にしては歯切れのよい文句が数分続き、読経の後何だか頭がスッとする。
しかし(ここが肝心なところだが)心経はもともと修行中の学僧が寝食を忘れて四つに取り組まねばならぬようには作られていない。近ごろでは葬式仏教化したお坊さんが檀家の法事に、読経時間の調節用に使ったりする。
そういうお坊さんにとって心経のポイントは「色即是空空即是色」の一点にあるとされる。もし檀那衆から説教を求められても、そこだけ押えて喋れば、たいてい一座は感動する、という。
そこで僧会全体に油断が生じた。藐という字の意味など、あまりにも日常的過ぎて、いつの間にかミャクの表音記号としてしか見られなくなった。この字がミャクだと信じていれば藐でも
でも
どちらでもいいところまで堕ちてしまった。この油断は、信じ難いことだが1400年(垂水説)も続き、二十一世紀にしてはじめて垂水烽士というズブのアマチュアに摘発されることになった。
いや、ズブのアマチュアだからこそ摘発できた、といってよいのかも知れない。
2002 年8月 米田
般若心経秘鍵へ戻る
TOPへ戻る